自由と権利と治安
☆ちょっと難しい話ですが、なんかちょっと考えたいときにどうぞ☆



トップページへ戻る



《自由と権利》

 「人というものは、生まれながらにして自由な存在である。」というのは、誰かの言葉だったと思います。人は誰でも、生まれたときは自由です。その後も、他の人と交流しない限りは、絶対的に自由な存在です。誰もいない山中や無人島では、絶対的な自由が手に入り、保障されます。誰も、あなたの意思や行為を束縛しません。だから、あなたは好きなときに寝て、起きて、食べて、遊んで、と好きなことを好きなときにできる訳です。しかし、このような世界では、病気になる自由、ケガをする自由、死ぬ自由も、当然、ある訳です。病気になっても、誰も助けてくれません。ケガをしても、誰も助けてくれません。そして、食べ物が無くなって餓死しそうになっても、誰も助けてくれません。つまり、絶対的な自由には、本人の意に反する自由も、全て背負わなければならないのです。

 「人は、一人では生きてはいけない。」というのも、誰かの言葉だったと思います。人は、他の人と交流をして生きていきます。だからこそ、人は、言葉を手に入れたのです。人が二人以上集まれば、そこに社会というものができます。社会、つまり、人と人の交流の場のことです。その社会では、一定のルール、つまり、自由の剥奪が行われます。なぜなら、社会を構成する全ての人に、絶対的な自由を保障できないからです。どうして全ての人に絶対的な自由を保障できないか、それは、ある一人の自由が、他の人の自由を侵害することがあるからです。例えば、簡単な例として、A、Bの二人だけの社会を考えて見ましょう。Aがお腹が減って、何か食べたいと思い、Bのパンを食べたとします。これは、Aの観点から見れば、Aの自由だから問題ないとなりますが、Bの観点から見ればどうでしょうか。Bは後でそのパンを食べようと思っていたら、Bの後でパンを食べるという自由が奪われたことになります。また、もっと極端な場合、AがBのパンを奪うために、Bを殺したとしても、Aの観点から見れば、Bを殺すのも自由であるから問題ない訳です。しかし、Bの観点から見れば、殺されるということは、全ての自由を奪われることになり、大問題だと言うことができます。

 このように、人が二人以上集まった社会の中では、完全な自由を認めることはできません。完全な自由を認めることが、他の人の自由を侵害したり、剥奪したりすることになるからです。そこで、人は、社会の中では、お互いの自由を少しずつ平等に剥奪することにより、社会を円滑に動かそうと考え出しました。そして、剥奪された自由に代わり、新たに権利というものを平等に付与したのです。つまり、人を殺す自由を剥奪された代わりに、人に殺されないという権利を得ました。人のものを奪う自由を剥奪された代わりに、人にものを奪われないという権利を得ました。好き勝手に死ぬ自由を剥奪された代わりに、生きる権利を得たのです。

 ところで、学校で習った基本的人権というものは、人が生まれながらにして持つ権利と教えられました。これは、当たり前の話です。人は、絶対的な自由を持って生まれてきます。そして、社会の中で、その自由が剥奪され、その剥奪された自由に相当する権利を与えられます。このときに剥奪されなかった自由剥奪された自由に代わる権利の和が、基本的人権と言われるものだからです。時と場所によって、この自由と権利の形は微妙に変化しますが、その総数は変わらないのです。例えば、奪略文化のあるところでは、人のものを奪うというのは正当な行為です。この社会では、奪う自由が保障される代わりに、奪われない権利というものは、認められていません。またシンガポールでは、路上でタバコを吸えば、罰せられます。これは、路上でタバコを吸う自由を奪われた代わりに、路上で他人のタバコによる受動的喫煙を受けない権利が保障されたということになります。

 現代の人権論では、自由を権利の一部に位置づけて教育しています。だから、なかなか人権というものが時代によって変遷するということが理解できません。上のように、自由と権利を切り離し、その和が人権であると考えれば、理解しやすいものと思うのですが、みなさんはどう考えられますか??


《自由と治安》

《以下続刊》


トップページへ戻る


 本サイトは、個人的な経験及び考えに基づいて構成されていますので、その内容において、正確性、信頼性および利益性を保証するものではありません。ですから、原因のいかんに関わらず、当方では、一切の責任を負いません。また、本サイトの情報に基づいて行った投資行為その他の損害についても、一切の責任を負いません。投資その他の行為については、自己資金の範囲内で慎重に行うようにして下さい。投資の最終判断、最終責任は、全てご自身でお願いします。